初めての子どもを出産し、退院する前日に「この子は耳が聞こえないかもしれません。1ヶ月後に再検査を」と言われました。その日から再検査まで、ほとんど眠れず、心身ともに極限状態でした。そして迎えた再検査の日、「ほとんど聴力がありません。ジャンボ機のエンジン音を間近で聞いて、ようやく感じられる程度です」と告げられました。まるで頭をハンマーで殴られたような衝撃でした。
一生懸命あやしても、この子には声が届かない。無音の世界にいる我が子とどう接してよいかわからず、主人の転勤先で友人も家族もいない私はノイローゼのようになっていきました。月の半分以上は出張で不在の主人に「次にこの子と2人きりになったら、自分がどうしてしまうかわからない」と泣いて頼み、休職してもらったこともあります。
生後3ヶ月から補聴器をつけ始めましたが嫌がって外してしまううえ、外出時に他人に見られるのが嫌で外させてしまうこともありました。そのことを主人に知られたとき、泣きながら「この子の存在が恥ずかしいなら、俺が1人で育てる。この子がそんな風に思われていたなんて、この子が可哀想だ」と言い、会社の人が集まるイベントに補聴器をつけた我が子を堂々と連れて行ってくれました。その姿を見て「このままでは駄目だ、変わらなければ」と覚悟を決めようと思いました。
もちろん、すぐに受け入れられたわけではありません。さまざまな人との出会い、我が子との時間を重ねるなかで、少しずつ「慣れる」ことができてきた、というのが正直な表現です。なぜなら、受け入れたと思っても壁にぶつかるたび気持ちは折れ、また立て直す日々だからです。
障害があることで、これからどれほどお金がかかるのか、進路に合わせた引っ越しや主人の仕事への影響はどうなるのか、1年後の生活すら想像できない不安の中で、補装具や療育、病院、進路などの情報収集を始めました。その過程で障害児福祉制度の存在を知ったときは、心からありがたいと思いました。
しかし、いざ申請してみると「申し訳ありませんが、福祉支援の対象外です」と告げられました。理由は「所得制限」。わずか数万円のオーバーでした。意味がわからず何度も尋ねましたが「国の決まりです」と繰り返されるばかり。赤ん坊を抱っこしながら帰る道すがら、絶望感に押しつぶされそうになりました。
世の中に伝えたいこと
障害を受け入れるのは決して簡単ではなく、何年も何年もかけて、その間に何度も心がネガティブな感情に支配されては、どうにか生きていくを繰り返しながら、少しずつ受け入れていきます。そんな生活の中で、福祉支援の有無を色々なところで体感するたびに、国の制度の分断によって、更に心理的経済的にもダメージを受けます。
一生懸命働いた結果、我が子が支援から外れるのはどういうことなのか?
1〜2年支援をいただいていた時期がありますが、所得が上がったはずの今の方が、家計が苦しいです。支援を切られる不安から、仕事を頑張ったはずの主人に辛くあたってしまい、「支援ほしさに、やりがいや夢を仕事に持つのは諦めろというのか?」と言われたこともあります。
障害児を育てていくには、色々な壁がありますが、国の制度がその壁になっててほしくありません。所得制限は、ただの線引きではありません。そこには私たち家族の日常や人生があります。1人でも多くの人が、安心して働ける、安心して子供が産める、そんな日本であってほしいと心から願っています。
— momoka さんのくらし